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復興の礎~塩竃観光の今~
KIKI-TABI ~2 Thousand Miles~
東日本大震災から2カ月が過ぎた頃、YAJIKITA一行は東京駅にいた。
5月13日午後5時頃の事である。
東北新幹線の改札前は少し大きな声で話さなければいけない程、混雑していた。
あの震災後、この番組でも幾度となく被災地取材の声が上がった。
およそ8年の放送期間を誇る長寿番組である、今回の震災で被災された地域にも何度も足を運んだ。
(*過去のHP参照)
我々にだって出来る事が、何かあるはずだろう。
お世話になった方々に何かお手伝いは出来ないだろうか。
色んな事を、色んな手段を、考えた。
YAJIKITAは旅番組であって、報道番組では決して無い。
取材を終えた後に聴く人に何を残す事が出来るのか?
残った感情が少しでも光のあるものであって欲しい。
そして未だ震災で辛い想いをされている方がいる事実も、リスナーに忘れないで欲しい。
考えがまとまらない中、4月のある日、こんなニュースが舞い込んだ。日本三景の一つ、宮城県松島で観光遊覧船再開そのニュースを後押しするかの様に、東北新幹線の全線開通である。
沢山の人の想いを乗せて、新幹線が東北に向けて再び出発する事になったのだ。ちょうど様々な所から【観光客の激減】【観光産業壊滅】等の言葉が聞こえてきていた。
復興までに時間はかかるだろう、だけど人が行かない事には何も始まらない。
観光が戻った場所には人も戻っていくべきなのだ。
そしてその後押しとなるのは、長く日本全国を旅してきたこの番組なのだ。
自分の気持ちが固まった。
旅でお世話になった我々の出来る恩返し、旅をすることだ。
そしてその場所に暮らす方々の想いを全国に伝えること。
この番組を聞いてくれたリスナーさんに「行きたい」と思わせる旅にすること。
5月13日午後5時の東京駅に集まったYAJIKITA一行は、そんな想いを胸に秘めていた。氏家「シウマイ弁当買ってきていい?」間髪いれずにカットインしてきたこのお方。
YAJIKITA ON THE ROADの裏番長:氏家氏(山本山みたいね)でございます。
なんせ数々の名番組を手掛けている大ベテランであり、前Pの木多氏の盟友。
井門Pなんてこの人からすれば塵芥の様な物なのであります。横山「今回も宜しくお願いします~。」穏やかな笑顔でリュックを背負うのはこの方。
来年業界歴30周年のYAJIKITAの良心:横山氏であります。
横山氏の出身は福島県である為、今回の震災に誰よりも心を痛めていました。吉武「頑張りましょう!」爽やかに髪を靡かせて登場したのは御存知ミラクル:吉武氏であります。
YAJIKITAは放送開始初期からのメンバーであり、
行き当たりばったりに見えて実は凄く考え込んでいるタイプの作家さん。慶吾「腹減った!」(略)今回は井門P含めて5人編成のスタッフとなったYAJIKITA一行。
勿論、D・作家・カメラは一人である。では5人編成とは?
実は東日本大震災が発生直後、メンバーの氏家さんは仙台・塩竃に入って中継を入れた。
氏家さん自身も塩竃に親戚がいらっしゃるという事で、中継隊として現地に派遣されたのだ。
(その後、Dとしても一度FM仙台で生放送)
その氏家さんがYAJIKITAの会議でこんな話をしてくれた。氏家「もし塩竃に行くなら、俺の親戚の所に行くのも良いし、
もう一度塩竃のコミュニティFMの人達に会いたいんだよなぁ。」最初に塩竃に入った時、塩竃市役所の一室を借りて災害放送をしていた、
コミュニティFM「ベイウェーブ」のスタッフと氏家さんが交流を持ったと言う。
震災から間もなくの非常時であったにも関わらず、温かく迎えてくれたそうだ。氏家「目的は“話を聞く”ってんじゃないんだけど…。
2カ月経ってさ、個人的に彼らの顔がもう1度見たいんだよね。」人に会いに行くのが目的の旅――これもYAJIKITAっぽくて良い。
我々の旅は東京を離れ、仙台を拠点にまず塩竃へ向かう事に決まった。
東京から仙台までは新幹線でおよそ2時間。
おそらく途中で徐行運転を行う影響だろう、いつもよりも若干時間がかかる。
そうは言っても2時間ですからね、あっと言う間。
新幹線の運転ダイヤも通常運行では無いのだが、JRのHPを見て欲しい。
かなりの本数がもう復旧して走っている事がわかる。
そうなのだ、震災から2カ月が過ぎたこの時、仙台にはこんなに早く到着出来るのだ。
ここにも様々な方の尽力を感じずにはいられない。
そして車窓からの景色は徐々に震災の爪痕を僕らに見せ始める。東京から1時間も過ぎ、郡山の手前に来た頃だろうか。
僕の隣に座っていた横山さんが、車窓の方へと身を乗り出した。横山「やっぱり田植えはまだなんだ…。」福島県出身の横山さん、田園風景は見慣れているものの、
この時期に田植えをしていない田んぼを見るのは初めてと言う。
福島は他の被災地と違い、原発の問題を抱えている。
車窓から見た風景の中で、特に畑や田んぼがダメになっている印象を受けない。
ただし“見た目だけでは語れない辛さ”を、この土地の方々は抱えているのだ。
郡山を過ぎた辺りになると、瓦屋根の補修をされている家が多くなってきた。
立派な日本家屋が並ぶ中、屋根の上のブルーシートが痛々しく目立つ。
窓の外の景色に釘付けになっていると、いつの間にか新幹線は福島の駅を過ぎた。横山「そろそろ宮城に入るね。」午後7時過ぎ、我々は仙台駅に到着した。
金曜日の夜である、予想していた以上の賑わいが駅構内にも広がっていた。
氏家さん曰く、最初に入った時は仙台駅の構内にも入れなかったのだそうだ。氏家「なんか、良いね。こんなに沢山の人がいる。泣けてくるね。」しかし仙台駅を出た我々の目に飛び込んできたのは、ある意味での現実だった。
ネオンは綺麗だ、金曜の夜だからお洒落をした若者も大勢いる。
待ち合わせで合流して、賑やかにはしゃぐ人達もいる。携帯で喋る声も四方から聞こえる。
ただその背景にある大型ビジョンに映し出された警察からの文字。――御遺体を発見された方は、警察に連絡を。――我々は間違いなく被災地へやってきたのだ。
仙台に到着し、少しだけ緩んでいた緊張の糸が再び張る。氏家「俺が来た時は3月も半ばだってのに、東北は冷たい雪が降っていたんだよ。
名残の雪だね。すぐ止むかなと思ったんだけど、次の日は積もって一面が雪になってた。」氏家さん達は地元の道に明るいタクシー会社にお願いして、
翌日タクシーで塩竃の方に入っていったという。その時はまだ石巻までは入れなかったのだ。
しかし我々は今回の取材で震災被害の大きかった石巻まで入る。――前に進む言葉を探す為に。宿泊先へと辿り着いた一行は、仙台市内の歓楽街『国分町』へと向かった。
国分町は東北随一の歓楽街であり、ここの復活を心待ちにしていた方も多いと聞く。
賑わいはどの程度まで戻っているのか…そんな事を考えながら歩いていると、
仙台駅の近くの元避難所であった小学校の前に出て来た。
仙台市立東二番丁小学校。
今は学校としての機能に戻り避難所の跡は残っていないが、大勢の方がここで夜を明かした。
2カ月が経つと街の様子もここまで変わるのかと、復旧作業に当たられている方の活動に頭が下がる。
それは国分町に入った時も同様に感じた。
こちらが驚くぐらい、人のなんと多い事!!笑い声は弾け、賑やかさは東京とさほど変わらない。
お店のスタッフも、若者も、近隣のサラリーマン・OLも、どの顔も金曜夜を楽しんでいるのだ。
氏家さんもずんずん先頭を進むもんだから、客引きからぐいぐいと呼び止められる。
歩いていると大学生達は真っ赤な顔して『カラオケ行く人~!?』なんて言っている。
勿論、それぞれの方にお話しを聞けば、あの日の震災に深い想いを持っているだろう。
しかし今、目の前に広がっている景色は“取り戻しつつある日常”なのである。
賑やかな喧騒を前にして、心が熱くなったのは初めてだったかもしれない。――翌日、我々は駅前でレンタカーを調達した。すると不意に強い潮の匂いがする。
どこから上がってきているんだろう?と怪訝な顔をしていると、事務の女性が教えてくれた。事務の女性「この潮のきつい匂いは石巻の匂いなんですよ。
この車はお客さんの前に石巻をずっと走ってたんです。石巻を走るとこの匂いになるんです。」一同、返す言葉も無い。
改めて震災がもたらす影響を感じながら、我々は塩竃へと向かった。
車を走らせるとよく分かるのだが、中心部からものの20分も走ると風景が一変する。
特に塩竃の手前の多賀城市に入ると、津波で流された車や壊れた家の姿が目に入る。
建物の1階部分の扉が津波でぐにゃりと曲がり、電柱も信号も根もとが折れているものもある。
低地で海に近い場所は、お店もまだ営業が出来ない状態が続いていた。
しかしそんな中でも地元の人が集まって、青空フリーマーケットをやっていたり、
ボランティアの方が作業していたりと、確実に前に進んでいるのも実感。
道路もしっかり車線がキープされ、道中は非常にスムーズに進んでいく。
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